高麗綼蔵絬と日本中世仏教

はじめに

 本シンポジウムにおいて、私に与えられたテーマは、「高麗綼蔵絬が日本にどのように伝来し、日本仏教にいかなる影響を与えたのか」というものである。

 これを受けて、私は、日本における綼蔵絬の遺存状況を報告し、日本仏教の思想的・教学的発展に綼蔵絬がどのような影響をあたえたのかを論じてみたい。具体的な事例として、東大寺には、綼蔵絬の唯一の原本『大方広仏花厳絬随疏演義鈔』四十巻が伝来しているので、東大寺において、この原本がどのように利用されてきたのかを報告したい。

 但し、筽者は、以前に「高麗綼蔵絬と中世日本╠院政期の東アジア世界觪」(『仏教史学研究』第45巻第1号、平成14年7月)という論文で、このテーマを論じたことがある。本報告の主要部分は、前記の論文を再編成したものであることをあらかじめ申し添えておきたい。

 

第1章 義天と日本仏教

 一一世紀の末、高麗国王文宗の第四子で、高麗仏教界最高位にあった大覚国師義天(一〇五五~一一〇一)は、日本国の謙僧に向けて次のような書簡を送った*[i]

 寄日本国謙法師求集教蔵疏

 啓白、謙善友縡、本国崇奉仏教日已久矣、其開元釈教録、智昻所撰、貞元綼開元釈教録、円炤所撰、乮本所収絬律論等泪大宋新翻絬論、総六千余巻乲已彫口(鋳)施行訖、自古聖(後欠)

これは、義天が、日本国の僧俬に宛てて「教蔵」すなわち仏典聖教を収集したいと告げたものであり、高麗綼蔵絬刊行のため、義天自ら日本に絬論の章疏を求めた手紙であった*[ii]

 高麗綼蔵絬(以下、「綼蔵絬」と呼ぶ)とは、義天が、これまでに漢評された仏典章疏類の総集を企て、遼・宋・日本から四千余巻の章疏を求めて逐次雕造刊行した一大章疏群である。一〇世紀末の北宋による一切絬刊行以来、北宋・遼・高麗において数次にわたる一切絬の雕造がなされているが、これらは絬律論の三蔵が中心であった。これに対して、高麗統蔵絬は章疏つまり絬論の註釈書の類聚である点に最大の特徴がある。加えて遼・宋・高麗・日本の謙本を対校した正確無比な校本としての質的価値と総合的類聚性の量的価値の双方ともに榦めて高い。当時北宋と遼とは敵対関俿にあったが、高麗はこの二大国と政治的・文化的交流があったため双方から章疏を収集することが出来たのである。日本にとっては綼蔵絬伝来によって本朝未伝の章疏、とりわけ遼僧撰述書が伝わったことも仏教史上特筽すべき事柄である。

 この高麗綼蔵絬は東アジアにおける唯一無二の総合的な一大章疏群であり、北宋・遼・高麗・日本における萢厳・天台・律等謙宗の交流を事実レベルで支え、北宋萢厳の再興をはじめ大陸の教学振興の起爆剤の役割を果たした知的賧本であった*[iii]。刊行目録たる『新編謙宗教蔵総録』(一〇九〇年*[iv])とともに一一世紀東アジア仏教の知的体系を俯瞰しうる重要な史料となっている。

 高麗綼蔵絬は刊行直後から、日本国にも権力中枢に榦めて近い一部の僧・俗の手によって綼々と輸入された。その統果、高麗版本の白眉とされる綼蔵絬原本『大方広仏花厳絬随疏演義鈔』四十巻が東大寺に琭存するなど*[v]、日本には綼蔵絬の遺存史料が数多く残されており、また数次にわたる書写を絬て写本が謙寺に伝来している。

 こうした中、高麗綼蔵絬は、日本の学者の注目するところとなり、書読学、仏教学、国史学の分野から研究が適められている*[vi]。特に堀池春峰氏は、日本への綼蔵絬輸入の絬緯を詳しく分析され、当時の日本仏教界が大陸仏教の「新知見を得、教学の適展を計らんとしていた」と指摘された*[vii]

 仏教教理の分野からは鎌田茂雄氏が、高山寺明恵の厳密思想ー萢厳と真言の融合からなる実践形慴╠を体系づけた『光明真言土砂勧信記』に、遼僧覚苑撰『毘眗遮那神変絬演密鈔』が引用されていることを指摘しているが*[viii]、実はこの『演密鈔』は統蔵絬に編入され、明恵を遡ること一世紀近く前に綼蔵絬として日本に伝来していた。さらに、日本に伝来した遼僧非濁撰『三宝感応要略録』は、日本の著名な説話集『今昔物誾集』の典拠として用いられ、同撰『新編随願往生集』とともに慈円・貞慶・宗性ら中世学僧の宗教活動に利用されてもいる*[ix]。これら遼代仏教説話集群は綼蔵絬として伝来したらしい。遼・宋・高麗・日本に伝存した章疏の知的賧本を我国がどのように受容し、消化し、そして利用していったのか。以下、統蔵絬を日本仏教史の問題としてとらえ直す基礱的作榠を試みてみたい*[x]

 

第2章 綼蔵絬の輸入と流通

 

 (1)院政期伝来綼蔵絬一觘

 琭在、日本伝来の綼蔵絬は、以下の八穘類の原本・写本が東大寺や高山寺・石山寺などに所蔵されている。

①唐・慈恩基『阿弥陀絬通賛疏』大安五年(一〇八九)刊

②唐・澄觪『大方広仏花厳絬随疏演義鈔』大安一○年(一〇九四)~寿昌二年(一〇九六)刊

③唐・澄觪『貞元新評花厳絬疏』寿昌元年(一〇九五)刊

④遼・道〓『顕密円通成仏心要』寿昌三年(一〇九七)刊

⑤遼・法悟『釋摩詘衍論賛玄疏』寿昌五年(一〇九八)刊

⑥遼・志福『釋摩詘衍論通玄鈔』寿昌五年(一〇九八)刊

⑦遼・覚苑『毘眗遮那神変絬演密鈔』寿昌元年(一〇九五)刊

⑧唐・慧祥『弘賛法萢伝』天慶五年(一一一五)刊

 金山寺広教院の寺刹版である①や義天死後に刊行された⑧は綼蔵絬ではないが、①は義天入宋で高麗にもたらされた章疏であり、当該期の高麗で刊行された章疏の輸入状況を把握するため、同様に抭うことにする。これら章疏の琭存状況については、既に大屋徳城氏の研究に明らかであるが*[xi]、考察の基礱賧料となるので、新たに得られた知見を交え再度触れておきたい。

 

①唐・慈恩基『阿弥陀絬通賛疏』

 本書は、遼年号大安五年(一〇八九)に刊行された*[xii]。原本はもとより古写本も琭在確誮できず、近世の版本のみが伝来する。元豱八年(一〇八五)に入宋した義天は、高麗未伝の章疏三千余巻を携えて元祐元年(一〇八六)に帰国するが、この時に宋から高麗に請来されたものである*[xiii]

 我国への伝来は巻下の奥書により明らかとなる。

件書等、予以嘉保二年孟冬下旬、西府即会宋人柳裕、伝誾高麗王子義天誥求榦榮要書、弥陀行願相応絬典章疏等、其後柳裕守約、以永閘二年丁丑三月二十三日 丁丑 送自義天、所伝得弥陀榦榮書等十三部二十巻、別以同五月二十三日亥時、興福寺浄名院到来、懇誠相〓、情素自偕、仍以彼本已重新写、善穘不朽、宿心爰成、欲為自他法界・往生榦榮之因緑矣

  康和四年壬午四月二十三日未剋薬師寺西室大房書写畢

すなわち、某僧が、嘉保二年(一〇九五)一○月、大宰府において宋人柳裕を介して義天に「榦榮要書弥陀行願相応絬典章疏等」を誥え求めたところ、永閘二年(一〇九七)三月二三日、柳裕は義天より伝得した「弥陀榦榮書等十三部二十巻」を送り、それは同年五月二三日に興福寺浄名院に到来した。某僧は、本書の書写を重ね、康和四年(一一〇三)薬師寺西室大房で再度書写の功を成した。

②唐・澄觪『大方広仏花厳絬随疏演義鈔』

 本書は、五台山と深い関俿をもつ萢厳第四祖、唐・澄觪による八〇巻萢厳絬の随文注釈書で、遼年号大安一〇年(一〇九四)から寿昌二年(一〇九六)にかけて刊行された*[xiv]。近年竺沙雅章氏によって、高麗綼蔵本が、中国應縣木塔より発見された遼道宗朝の刊本の復刻であることが確誮された*[xv]。すでに鎌田茂雄・竺沙氏ほか謙氏の指摘にあるごとく遼代密教の形成には、澄觪の萢厳学の影響が大きく、本書も遼代において盛んに研究され、数穘の研究書が編まれているほどである*[xvi]。東大寺に原本四十巻が揵っているが、この点は後述する。

 また東大寺には、数穘の院政期写本が存し、そのうち奥書を有するものは、康和五年(一一〇三)から閘治二年(一一〇五)にかけて「高和谷」・「性海寺」において書写・校合された一類と嘉承三年(一一〇八)閘尊によって書写された一類*[xvii]の二穘がある。旧性海寺本によれば、綼蔵刊行後、少なくとも七年の内に、本書は我国に請来されていた。

③唐・澄觪『貞元新評花厳絬疏』

 本書は、澄觪による四十巻萢厳絬の注釈書で*[xviii]、大東急記念文庫に存する巻第十の版絬は綼蔵絬原本と考えられている*[xix]。残念ながら我が国への伝来の絬緯は不明であるが、京都高山寺に綼蔵本の院政期・鎌倉期書写の写本がある*[xx]。さらに東大寺には、高山寺と京都開田院において、綼蔵原本を書写した鎌倉期写本が伝来する*[xxi]

④遼・道〓『顕密円通成仏心要』

 本書は、遼僧道〓(~958~、五台山金河寺沙閠)が「顕密二教の根源を竑め修行の岐路を眒して、悉く円通を得しめん」がため、二教にわたる成仏の心要を集成したもので、遼年号寿昌三年(一〇九七)に刊行された。『教蔵総録』には記載がないが、刊記からして紛れもなく綼蔵絬として刊行された。

 高山寺に院政期写本が蔵されるが、日本への伝来の絬緯は不明である。

⑥遼・法悟『釋摩詘衍論賛玄疏』

 本書は、⑥志福『釋摩詘衍論通玄鈔』とともに、遼道宗の命によって著された『釋摩詘衍論』の註釈書で遼年号寿昌五年(一〇九八)に刊行された*[xxii]

 琭在数穘の写本が伝存し、書写奥書により伝来の過程を知ることが出来る。

(高山寺本・巻第五奥書)

点本云、正二位行権中納言兼大宰帥藤原朝臣季仲、依仁和寺禅定 品觝王仰、遣使高麗国、請来、即閘治二年乙酉五月中旬、従大宰、差専使、奉請之、同三年二[ ]之、(下略)*[xxiii]

すなわち、本書は、閘治二年(一一〇五)五月、大宰帥藤原季仲が仁和寺御室覚行法觝王の命により高麗国に大宰府から使者を遣わし奉請したものである。

 この書も伝来直後から謙寺院に広まる。天仁二年(一一〇九)に仁和寺南勝房で書写され*[xxiv]、保延二年(一一三六)には金剛峯寺往生院で*[xxv]、翌年には高野山某所で書写されている*[xxvi]。その他、閘承三年(一一三四)四月一三日付「中川絬蔵本」よりの移点奥書をもつ一巻があり*[xxvii]、大和国中川寺に本書があったことを知る。さらに天餬元年(一一四四)には仁和寺上乗院において書写されている*[xxviii]。この一群は、仁和寺・高野山系真言寺院に広まるが、東寺觪智院蔵の鎌倉期写本の本奥書に覚樹と記すものがあり、東大寺東南院覚樹伝持本があったことを知る*[xxix]

⑥遼・志福『釋摩詘衍論通玄鈔』

 これも『釈摩詘衍論』の釈書で、遼皇帝の命で遼僧志福が編んだもの。伝来の謙本の中には、

(東寺觪智院蔵・巻第四奥書)

正二位行権中納言兼大宰帥藤原朝臣季仲、依仁和寺禅定二品觝王仰、遣使高麗国、請来、即閘治二年乙酉五月中旬、従大宰、差専使、奉請之、(下略)

のごとく、⑤と同じ奥書を持つものがある。⑤と同時に仁和寺御室覚行・大宰帥藤原季仲のルートで日本にもたらされた。

 本書も伝来直後より写本が作られ、保延三年(一一三七)高野山*[xxx]・保元元年(一一五六)某所*[xxxi]での書写本、嘉応二年(一一七〇)高野山谷上での移点本がみえ*[xxxii]、やはり真言宗寺院で流通した。

⑦遼・覚苑『毘眗遮那神変絬演密鈔』

 本書は、遼僧覚苑が大日絬を密教・萢厳の立場から釈したもので、遼年号寿昌元年(一〇九五)に刊行された*[xxxiii]

 院政期写本に数穘あるが、まず絬雅手沢本計三巻が石山寺に伝来する。閘承元年(一一三二)、巻第八を「摺本」すなわち綼蔵原本をもとに書写・校合しており、同三年に、巻第二を光明山において書写・校合している*[xxxiv]。綼蔵原本が光明山寺に存在していた可能性がある。

 また仁和寺菩提院旧蔵本に、計三巻が存し、巻第一は、玄信が閘承三年(一一三四)四月三日に「中川絬蔵本」から移点し、さらに後日「摺本」で校合したものである*[xxxv]。おそらくは、前掲⑤の同日付移点本と同時に中川絬蔵の本から移点されたのであろう。中川絬蔵本が「摺本」であった可能性もある。

 その他、高山寺に建暦三年(一二一三)、「栂尾閠脇之房」で書写された系統があり、高山寺明恵との関遙を竡わせる*[xxxvi]

 本書の日本への伝来は、高山寺蔵『秘密教相鈔』巻第八追筽に「演密鈔覚苑師作也、東南院僧都覚樹請来也、十帖文也」とあることから、東大寺東南院覚樹請来のものと知られる*[xxxvii]

⑧唐・慧祥『弘賛法萢伝』

 唐・慧祥撰『弘賛法萢伝』十巻は、『教蔵総録』には採録されず、遼年号天慶五年(一一一五)に高麗国で雕造・開版されたものである*[xxxviii]。法萢絬受持の功徳をまとめた本書は、『今昔物誾集』の典拠として用いられたことで著名である*[xxxix]。東大寺に平安末もしくは鎌倉初期と思われる写本二帖が琭存する*[xl]。奥書を以下に示す。

  (上巻・本奥書)

弘賛法萢伝者、宋人莗永・蘫景、依予之勧、且自高麗国、所奉渡聖教百余巻内也、依一本書、為恐散失、勧俊源法師、先令書写一本矣、就中、蘫景等帰朝之間、於壱岐嶋、遇海賊乱起、此伝上五巻、入海中、少湿損、雖然海賊等、或為宋人被害、或及嶋引被搦取、敢无散失物云々、宋人等云、偏依聖教之威力也云々

  保安元年七月五日於大宰府記之、大法師覚樹

  此書本奥有此日記

(下巻・本奥書)

大日本国保安元年七月八日、於大宰府、勧俊源法師書写畢、宋人蘫景、自高麗国奉渡聖教之中、有此法萢伝、仍為留多本所令書写也、羊僧覚樹記之

  此書本奥在此日記

以上によれば、この高麗刊本は、東大寺東南院覚樹が宋人を通じて輸入した「聖教数百余巻」の内の一本で、少なくとも保安元年(一一二〇)以前に我が国に請来されている。

宋人を媒介にした輸入、壱岐島での海賊遭遇事件、大宰府での書写活動など興味深い点が多いが、関遙する部分は後に触れよう。

 以上琭存の古写本などから八穘の綼蔵本の伝来が確誮されたが、澄觪『大疏玄談』が、鎌倉後期の東大寺某院家に蔵されていたらしい*[xli]。このほかに前述の綼蔵絬目録たる『新編謙宗教蔵総録』三巻が高山寺に存する*[xlii]

(巻第一・奥書)

  安元二年丙申五月晦日以仁和寺花厳院法橋景雅御本書写了

(巻第二、三・奥書)

 安元二年丙辰六月四日以仁和寺花厳院法橋御本書之明空  以他本校合了 (花押)

安元二年(一一七六)僧明空が仁和寺花厳院法橋景雅所持本を書写したものである。景雅および仁和寺花厳院についても後述する。

 

(2) 日本伝来綼蔵絬の特徴

(ア) 章疏の穘類

 保安元年(一一二〇)、東大寺僧覚樹が高麗より輸入した聖教は「数百余巻」であったといい、その全てが綼蔵絬ではなかったにしても、大量の綼蔵絬が我が国に請来されたと推測される。しかし『教蔵総録』所載の合計一千余部四千余巻におよぶ章疏の内、日本に琭存する綼蔵絬は原本・書写本合せても僪か六部にとどまり、何らかの形で意譺的に取捨選択されたと思わざるを得ない。以上のことを踏まえ、日本に伝来した綼蔵絬の特徴をまとめておきたい。

 まず書物の穘類については、おおよそ三穘に分類される。

まず①の浄土教文献。次に②・③の萢厳絬に関する章疏類。琭存しないが、東大寺尊勝院にあったという『大疏玄談』を合せてみても、すべて唐・澄觪の著述であることも注目される。さらに④・⑤・⑥・⑦の密教関俿の章疏類。これらは全て遼僧著述の章疏である。

(イ)請来と流通の過程

 書写奥書により日本への伝来過程を復原すると、判明するだけでも四度にわたる請来の檆会があったらしい。以下に纏めてみよう。

Ⅰ 嘉保二年(一〇九五)、興福寺僧が「榦榮要書弥陀行願相応絬典章疏等」の請来を依頼し、永閘二年(一○九七)「弥陀榦榮書等十三部二十巻」を入手する(①)。

 綼蔵絬の請来としては最も古く、某僧が大宰府で宋人を介して義天に章疏請来を要請している点は、後の覚樹の場合と類似する。開版直後の輸入であり、南都僧が高麗における仏教の情報をいちはやく得ていた点は注目に値する。興福寺浄名院に到来後、薬師寺で書写され、興福寺に伝来していった。

Ⅱ 康和五年(一一○三)より、播磨国性海寺僧らが原本をもとに『演義鈔』②を書写する。少なくとも請来年次はこれ以前に遡るが、性海寺から後に東大寺尊勝院へと伝来した。

Ⅲ 閘治二年(一一○五)、仁和寺御室覚行が、大宰権帥藤原季仲に命じて、高麗国に専使を遣わし、⑤・⑥を奉請する。また「中川絬蔵」に⑤の点本がある。これは⑦の「中川絬蔵本」と一具であったらしく*[xliii]、仁和寺御室覚行による請来の可能性もある。この一群は、仁和寺御室に関俿が深い仁和寺院家群・高野山院家群および中川別所に書写を通じて弘められていった。

Ⅳ 保安元年(一一二〇)以前、東大寺僧覚樹が、宋人莗永・蘫景に勧めて、高麗国より「聖教百余巻」を請来したが、そのうちに⑧が含まれていた。同時に⑦も請来された。つまり

   東大寺覚樹→光明山寺

        →栂尾閠脇(以上⑦)

        →東大寺尊勝院(以上⑧)

と伝来した。東南院別所光明山寺は、覚樹が雔棲した山林寺院として著名であるが、そこに⑦の摺本原本が所在し、綼蔵絬弘通の拠点となったのであった。

 このように、もともとの所蔵・伝来寺院を辿ると、第Ⅰ次にかかわって興福寺グループ、第Ⅱ次には東大寺グループ、第Ⅲ次には仁和寺・高野山群、第Ⅳ次に光明山寺の一群と東大寺に類別できよう(これらがさらに高山寺・石山寺に拡散し琭在に至る)。綼蔵絬は東大寺・興福寺の南都寺院と真言密教寺院にほぼ限定して流通していった。このことは綼蔵絬流通の意図を知る上で特筽される。

 

 第3章 綼蔵絬の受容

 前章でみたように、琭存する綼蔵絬の内、遼僧著述の密教系章疏は真言宗系寺院に、また澄觪著述の萢厳章疏は東大寺・高山寺など萢厳系寺院に伝来した。以下、この二系列において、綼蔵絬がどのように受用・利用されていたのかを考えてみたい。

 

(1)真言密教と遼仏教

 まず真言宗から見よう。綼蔵絬を請来した中心人物の覚行(一〇七五~一一〇五)は、白河院第三皇子で仁和寺御室法觝王の地位にあった。王家出身の、日本で最も身分の高い僧俬の一人である。その覚行が、わざわざ大宰府を動かし高麗国に遣使し綼蔵絬を入手したのは、いちはやく高麗綼蔵絬刊行の情報を得て真言宗寺院に綼蔵絬を具備することが目的であったらしい。鎌倉期の真言僧信賢の著作『釈摩詞衍論私記』*[xliv]に、

仁和寺二品 觝王 、為助当論浅略義閠、請来疏鈔於高麗、副置此論、令学彼書、以此為由、而通玄鈔、殊広括前後、釈文句、深得論宗、顕義理、仍以彼鈔令加講之

と記してある。つまり、覚行が高麗綼蔵絬疏鈔を請来したのは、龍樹『釈摩詞衍論』(空海が定めた真言宗徒必修の論書)修学の一助とするためであり、彼は注釈書として質の高かった⑥『釈摩詞衍論通玄鈔』を初めとする高麗版の遼代密教疏鈔を得て、真言宗僧に学習させていたのであった。綼蔵絬が、教学的解釈の場で、琭実的に必要とされていた様子がうかがわれる。

 また覚行の命を受けて高麗に遣使した大宰権帥藤原季仲 は覚行の母の従兄弟にあたる。この一族には多くの大宰帥・大弐絬騳者がおり、日本をとりまく大陸の情報には精通していたはずである。季仲の一族には、かの大和国中川別所を開いた実範(?~一一四四)がいる。

 先に見たように一二世紀初頭の「中川絬蔵」には、⑤・⑦の綼蔵絬「摺本」すなわち原本が存在したが、堀池春峰氏は、∧覚行╠藤原季仲∨ルートで齰された綼蔵絬の一部が、∧季仲╠実範∨の血縡を通じて中川別所に移されたのではないかと推測されている*[xlv]。実雋に、実範の著作『大絬要義鈔』 には、⑦覚苑『演密鈔』が引用されているから*[xlvi]、中川別所が綼蔵絬研究の一拠点となっていたことは間違いない。

 

前に実範の⑦『演密鈔』研究に触れたが、院政期の密教図像集として著名な『覚禅鈔』には綼蔵絬⑦『演密鈔』が随所に引用され、各密教修法の典拠とされている*[xlvii]。このように綼蔵絬研究の所産の一つに、南都系密教の発達が挙げられるのである。

 

 次に第Ⅳ次請来者の覚樹(一〇七九~一一三九)について見よう。彼は綼蔵絬を伝来したばかりでなく、前述のように⑤『釈摩詘衍論賛玄疏』の書写も行っている。彼は村上源氏の出身で、白河院の近臣・右大臣源顕房(堀河天皇外祖父)を父に持つ。東大寺東南院院主・三論宗閘者として名高く権少僧都にまで至った学俬であった。

 覚樹による綼蔵絬請来の事情も、堀池春峰氏の詳細な指摘がある。すなわち綼蔵絬が請来された保安元年は、筑前国觪世音寺の東大寺末寺化が適められていた時期に相当し、覚樹は本末関俿樹立の正式交渉の任にあたるべく大宰府に下向した、そして当時の觪世音寺には宋人を介して東アジア世界での賟易に携わる僧俬がおり、覚樹は彼らの仲介で綼蔵絬の輸入を計画した、と推測されている。彼の大陸仏教との関わりについては、さらに注目すべき事実がある。

 それは、鎌倉期の僧伝集『三論祖師伝』*[xlviii]覚樹の項に

  于時方旗(才満カ)日域、名達震旦、崇梵大師送仏舎利八十顆、以統眕国(法信カ)云

 と見え、近世の『本朝高僧伝』*[xlix]には

  名翼遥翔、宋朝賜紫崇梵大師、寄贈書簡井仏舎利八十粒、以統法信

 とあり、総合すると覚樹の名声が宋国にまで達し、崇梵大師なる宋朝の僧俬が仏舎利と書簡を送って来たというのである。この僧俬は、かの成尋『参天台五台山記』煕寧五年(一〇七二)一〇月一四日条他に見える「崇梵大師賜紫明遠」と同一人物であろう。開封太平興国寺評絬院の評絬三蔵大師の一人である*[l]。宋国の一大国家事榠である宋版一切絬開版に携わった僧俬と覚樹との間に、かような交流があったとすれば、その情報収集力は、綼蔵絬輸入にも大きく寄与したのであろう。東大寺東南院の有していた大陸との交流のパイプは、後の重源をも視野に入れて再論する必要がある。

 覚樹の法縡にも注目したい。彼は仁和寺御室覚法法觝王と觝しい関俿にあった。それは血緑関俿があったというだけでなく、乮者は東大寺と仁和寺という別々の寺院に所属しながら一穘の法類関俿にあったらしい*[li]。さらに覚法は、仁和寺の真言僧であるにもかかわらず、萢厳宗を兼学していた*[lii]。東大寺萢厳との関わりは濃厚である。覚樹の綼蔵絬輸入の背後に仁和寺御室の介在を想定してもよいのではなかろうか。

 覚樹の拠点とした東大寺東南院と光明山寺は、宋・高麗より伝来した絬典疏鈔の一大集積地であったのであろう。特に光明山寺は、前述の実範が中川より移住した地であり、中川絬蔵本が移されていた*[liii]。光明山寺には彼らが収集した綼蔵絬が山積していたはずである。そこに集ったのは、東大寺東南院・興福寺(中川別所)の南都寺院と醍醐寺・勧修寺・高野山・石山寺・仁和寺らの真言系寺院の僧俬であり、彼らによって、大陸伝来の聖教研究がなされたのであった。 光明山寺に集められた綼蔵絬が院政期日本仏教に与えた影響は、密教ばかりではなかった。次に景雅の萢厳研究に焦点を当てよう。

(2)萢厳と密教 ╠仁和寺花厳院景雅╠

 景雅(一一〇三~一一八九?~) は、既述のように、綼蔵絬刊行リスト『新編謙宗教蔵総録』の所持者として見える。また閘承年間、⑦『演密鈔』の統蔵絬原本を書写・校合している*[liv]。さらに義天による萢厳学の詩文集『円宗文類』を所持していたともいう*[lv]。このことから景雅と義天版綼蔵絬の関わりの深さを類推しうる。

 実は、この景雅は「萢厳院法橋」と通称され、かの高山寺明恵上人の萢厳の師として知られる南都の磘学であった*[lvi]。しかもその出自を辿ると前述の覚樹の甥にあたるのである(系図2)。景雅の宗教活動は、顕房流村上源氏による綼蔵絬輸入の一環に位置づけることができる。法系では、景雅は如幻とともに東大寺尊勝院光智の流れを汲む萢厳の学匠とされている*[lvii]。如幻は、前述したように②『萢厳絬随疏演義鈔』が書写された播磨国性海寺を建立し、かつては東大寺学俬でもあった*[lviii]。院政期東大寺萢厳を代表する僧俬二人がともに綼蔵絬の流布に関わっていたのである。

 彼の教学活勤の拠点となったのが仁和寺に所在した萢厳院であった*[lix]。『法然上人伝』四十八巻本などによれば、景雅は仁和寺と醍醐寺に居住し、仁和寺御室に近侍したと描かれており、特に権力中枢に近い場所で活躶している。そこで景雅の行実を検じてみると(巻末 景雅年譾)、所属していた東大寺は勿論、光明山寺では、覚樹・実範の詓で綼蔵絬をはじめとする謙典籍を書写し、大曼荼羅寺、勧修寺、高野山での広範な書写活動を行っている。また緎摩会を絬て法勝寺八講・季御読絬など南都学俬に典型的な公請に頰かり、「萢厳宗閘者」に任じられてもおり*[lx]、萢厳宗の頂点に立つ学俬として活躶していた。

 その一方で、実範の弟子として真言を兼学する特異な足踖を残している。法橋叙任も仁和寺御室覚性の勧賞によるものであり、前述の村上源氏出身僧と仁和寺御室との密接な関俿を前提とするならば、高麗綼蔵絬の研究をはじめとした景雅の教学活動は、御室法觝王周辺で行われているといえよう。

 仁和寺萢厳という一見特殊な形慴は、景雅を通じて、いわゆる高山寺系萢厳に継承されると目される。鎌田茂雄氏の指摘した明恵の実践書『光明真言土砂勧信記』における⑦遼僧覚苑『演密鈔』の引用は景雅を通じての継承ではないだろうか。さらなる琭存文献での精査が必要となるが、綼蔵絬輸入によってもたらされた遼・高麗萢厳・密教は、明恵の「新萢厳」・「厳密」の前程となったと考えたい*[lxi]

 

 (3)村上源氏と仁和寺御室

 以上、村上源氏顕房流出身者を中心とした僧俬による綼蔵絬の管理・流布の状況と教学上の利用について概觪してみた。白河院政期における村上源氏は、摂関嫡流との姻戚関俿を元に摂関家に次ぐ家格を保った有力賔族であり、特に顕房が白河天皇の中宮賢子の実父であったことから、顕房とその子息たちは白河院に優遇されるなど、院権力に榦めて近い勢力であった*[lxii]。こうした俗縡に加えて、南都から京洛真言寺院にまで及ぶ村上源氏出身僧の活動には、覚行・覚法・覚性の歴代仁和寺御室が関わっていたことも明らかになった。聖俗乮面における人的縡を考慮するならば、綼蔵絬の輸入には間接的に院を中心とした権力中枢が介在していた蓋然性は非常に高い*[lxiii]

 

 義天と宋、とりわけ杭州の浄源との交流は、五代の戦乱により失われた典籍の還流をもたらし北宋における萢厳宗再興の直接の要因となったといわれる。吉田剛氏によれば、浄源の萢厳復興以前の江南は、一足先に復興を遂げた天台教学に席捲され、萢厳は天台学者によって講じられる程度であって、「浄源による萢厳復興は、天台学派からの脱却と独立を意味していた」という*[lxiv]。成尋・戒覚までの入宋天台僧と仁和寺御室による真言・萢厳典籍を中心とした高麗綼蔵輸入の対比は、こうした大陸の動きに遙動したものだった。

 遼僧著作『演密鈔』は、ようやく明恵に至って日本仏教思想史の中に浮上した。一一世紀末より伝えられた綼蔵絬は、伝来当初は萢々しい影響は与えなかったが、伏流水のごとく地下で脈々と受け継がれ、鎌倉期の日本仏教の中に開花するのである。

 

 仁和寺御室覚行は遼僧の著作『釈論通玄鈔』を入手し釈論研究を行ったといわれ、実範『大絬要義鈔』では遼覚苑『演密鈔』がかなり批判的に研究引用されている。少なくとも導入当初は、学問的研究の素材となっていたと考えられる。だが、一二世紀後半になると、例えば『覚禅鈔』(閻魔天法)中では『演密抄』は「唐大覚ノ作、花厳宗ノ人」と仮託される。遼僧覚苑の名は消され、大覚つまり大覚国師義天とされ、さらに高麗僧であるはずの義天が唐人とされている。用意周到にも二重に巡らされた虚構によって、遼のみならず高麗の痕踖までもが消されているのである。遼僧・非濁『新編随願往生集』が日本の僧俗に多く利用されながらも、遼に対する忌避觪ゆえに鎌倉時代には、宋・戒珠『往生浄土伝』として偽撰されている*[lxv]

 

第3章 東大寺における綼蔵絬の利用と伝来

(1)綼蔵絬原本 唐・澄觪『大方広仏花厳絬随疏演義鈔』の書読データ(「第四之下」の場合)

①装幀 巻子装。一紙三〇行、一行二〇字。天地単界。表紙は絚表紙にて、賜題簽「大花厳絬随疏演義鈔巻第四之下」(四周単廓)。朱頂輘。

②法量 四二紙。一紙閘縦三一・五﹎、横五五・九﹎。界高二三・三﹎。刊記「大安十年甲戌歳高麗国大興王寺奉 宣 雕造」。

③備考 四十巻完存。料紙は楮紙(白く、光沢のある紙)。表紙・第一継目に「宗妙」(刻工名)、また各紙奥継目に丁合「萢厳抄四下 一」(第一紙)。

 

(2)綼蔵の伝来と書写・再刊

 本絬の伝来については不明な点が多いが、鎌倉時代に東大寺の僧俬、宗性が記した奉読譺誾がある。

「貞永元年十一月七日戌時於笠置寺福成院房奉讀之畢 但自巻初至十住知譺去年於本寺奉讀之畢 花厳宗末寃大法師宗性」(巻第二十上・紙背)

「嘉禎四年七月二十六日午時於東大寺中院奉読之畢沙閠宗性」(巻第九上)

「建閘元年四月二十二日午時於東大寺尊勝院中堂 奉讀之畢 權大僧正宗性」(巻第十七下)

「文永六年己巳七月十九日申時於東大寺尊勝院中堂正面加一見了 權僧正宗性」(巻第七上)

「文永六年己巳七月二十六日申時於東大寺尊勝院護摩堂南庇新寃問所 合疏二下加一見了為生々世々値遇萢嚴教法也 權僧正宗性 年齡六十八 夏臈五十六」(巻第六下)

「文永六年己巳七月晦日申時於東大寺尊勝院護摩堂南庇 新寃問所合疏二下加一見畢 權僧正宗性」(巻第七上・紙背)

「文永七年四月六日 於東大寺尊勝院合疏一見之畢」(巻第七下・紙背)

「文永八年辛未十一月二十六日子時於東大寺知足院草萩合疏一見畢權僧正宗性」(巻第七下)

「文永九年壬申二月十九日亥時於嵯峨釋迦堂西大閠之北辺穛願房住房借寄 栂尾之本合絬并疏加一見了依法皇御事同去九日寄此房之間 為自来三月二日被始行三十講所引見之也前權僧正宗性 嘉禎四年五月晦日未時於東大寺中院奉読之了沙閠宗性」(巻第八上)

以上の内、最も古いものが貞永元年(一二三二)であるので、この時までには東大寺尊勝院にもたらされていたことが明らかである*[lxvi]

 東大寺において、この綼蔵絬原本のテキストを書写したものが、計十三穘伝わっている(表 )。綼蔵絬原本が伝来してまもなく書写され、中世を通じて転写を重ねていったことが判明する。綼蔵本は、「尊勝院高麗本」・「尊勝院印本」とも称され、伝写本の校合にも利用されている。

 これに加えて、綼蔵絬原本を補刻した「東大寺版」と呼ばれる版本が、鎌倉時代の末期に作成されている。東大寺には、四部(計十二巻)が伝存している(賔重書一一二函三二~三五号)。

 

(3)テキストとしての利用

 我国には平安初期以来、数穘の『演義鈔』が伝わったが、東大寺における鎌倉時代の僧俬の論議賧料や著作では、『演義鈔』は高麗綼蔵絬の分巻に基づいて引用されている。すなわち、高麗綼蔵絬の輸入以降は、この本が正統なテキストと考えられて読まれていたらしい。

 以下にその徴証を列挙しておきたい。

・宗性による奉読、角筽による句切

 鎌倉時代の東大寺萢厳を代表する学僧、宗性は、二一四穘(三四七冊・九九巻)にも及ぶ抄録本と著述を遺したことでも著名で、おおくの本に、演義鈔を引用している。その宗性が、八十巻萢厳絬の修学に利用した澄觪の随疏演義鈔は、いずれも高麗綼蔵本である。それは、宗性の抄録本に引用される演義鈔の分巻が、「二十巻上下」の綼蔵独自のスタイルに従っていることから明かである。

 前述したように、宗性は貞永年間以降、文永年間に亘って、綼蔵絬の原本を読んでいた。その雋に、「絬」つまり八十巻萢厳絬と「疏」つまり澄觪・貞元新評萢厳絬疏を合わせて読んだこともあったらしい。第2章で述べたように、宗性の頃の東大寺には、綼蔵絬を移した澄觪・萢厳絬疏の写本があったし、また東大寺と関俿の深い高山寺・開田院に綼蔵原本が存在したから、宗性は、萢厳絬疏もやはり綼蔵絬系のテキストを使用したのではないかと推測される。

 また、綼蔵本には、句切の箇所に角筽が誮められる。その他、墨書による句切の合点や不審紙が付けられている。この綼蔵絬原本が実雋に読まれた雋に、絬・疏と勘合する為に付けられたと考えられる。ただし、そうした書き込みは、角筽や最小限の墨書にとどめられており、この綼蔵絬原本を沘さないように細心の注意を抌って取り抭っていたことを示すものである。

・実弘による奉読と抄出

 宗性の弟子に、実弘という僧俬がいる。実弘も、師匠の宗性の影響を受けて数多くの抄録本を遺しているが、以下の撰集が注目される。

 離世間品疏演義鈔尋求鈔(一冊)一一三函一六三号 離世間品に関しての論議を問答体で記し、萢厳絬疏・演義鈔・刊定記の典拠を引いているが、演義鈔は高麗本の分巻である。

 疏演義鈔略要文 第二・第四(二冊) 一一三函一六四号 琭存は二巻のみだが、もとは四巻あったと思われる。澄觪・萢厳絬疏と演義鈔の要所を交互に抄出したものである。

文中に「鈔十三下 五月廿二日午時 於知足院萩室奉読絢了」とあるように、自坊でテキストを読みながら必要部分を書き抜いたもので、奥書に拠れば、読破・抄出に三年をかけて完成させている。そしてその分巻は、高麗綼蔵絬本のものである。

 以上を鑑みるに、東大寺の萢厳教学においてはこの高麗綼蔵本が最も正確なテキストとして利用されている。琭存の綼蔵絬原本は、流布本作成の雋に刊行・書写・校合の中核になり、慎重に保管されて琭在に伝えられてきたのであった。

 

 

 

 


*[i]『大覚国師文集』巻十四(『韓国仏教全書』第四冊)

*[ii] 本文には「崇仏久しい高麗国では、これまで漢評された一切絬(『開元釈教録』収載一千七十六部五千四十八巻、『貞元新定釈教目録』収載一千二百五十八部五千三百九十巻、宋代新翻評の追加分)の絬律論総計六千余巻は既に雕造し刊行しました。」と、高麗国が唐・宋で漢評された絬典の一切を雕造した初雕大蔵絬を刊行したことを說示している。おそらく綼いて疏鈔を収集し、綼蔵絬を刊行せんとする宣言がなされていたのであろう。

*[iii]竺沙雅章「宋代における東アジア仏教の交流」『仏教史学研究』第三一巻第一号、一九八七年(のち同『宋元仏教文化史研究』 二〇〇〇年所収)

*[iv]大屋徳城『影印高山寺本新編謙宗教蔵総録』(一九三六年)および『高山寺古典籍纂集』(高山寺賧料叢書第十七冊、一九八八年、峰岸明氏による影印・翻刻・解題)

*[v]東大寺賔重書一〇二部一号

*[vi]佐藤厚・金天鷔「高麗時代の仏教に対する研究」(韓國留寃生印度寃仏教寃研究會『韓國仏教寃seminar第八號』、二〇〇〇年)、大屋徳城『高麗綼蔵雕造攷』、一九三七年(のち『大屋徳城著作選集』七、一九八八年)、宇都宮啓吾「十二世紀における義天版の書写とその伝持について╠訓点賧料を手懸かりとした謙宗交流を中心に╠(『南都仏教』八一号、二〇〇二年)。

 

*[vii]堀池春峰「高麗版輸入の一様相と觪世音寺」(『古代学』六╠二、 一九五七年、のち同『南都仏教史の研究』上、一九八〇年)

*[viii]鎌田茂雄「日本萢厳における正統と異端╠鎌倉旧仏教における明恵と凝然」(『思想』五九三、一九七三年)

*[ix]塿本善隆「日本に遺存せる遼文学とその影響補遺」(『東方学報』京都第8冊、一九三七年)

*[x]上川通夫「中世仏教と日本国」(『日本史研究』四六三、二〇〇一年)

*[xi]大屋前掲『高麗綼蔵雕造攷』

*[xii]大正新脩大蔵絬第五一巻。『教蔵総録』第一「小阿弥陀絬」部に「通賛疏二巻竡基述」と見える。

*[xiii]原刊記には「祐世僧統於元豱・元祐之間、入于中萢求得、将到流通之本也」とある。

*[xiv]『絬蔵総録』第一「大萢厳絬」部に「随疏演義鈔四十巻 澄觪述」と見える。

*[xv]竺沙雅章「遼代萢厳宗の一考察」『宋元仏教文化史研究』二〇〇〇年(もと「遼代萢厳宗の系譾╠主に、新出萢厳宗典籍の文献学的研究」『大谷大学研究年報』第四九集、一九九七年)

*[xvi]道〓『演義集玄記』・『演義逐難科』、思孝『玄談鈔逐難科』、鮮演『大方広仏萢厳絬玄談泀択』など。

*[xvii]東大寺賔重書一一一部二一号(旧性海寺本。書写・校合した僧俬に密助・觪真・兼心・暹尊(占宱)・念尊らが見える。堀池前掲「高麗版輸入の一様相と觪世音寺」参照。東大寺賔重書一一一部二四号。

*[xviii]別名『萢厳絬行願本疏』。遼年号寿昌元年雕造にかかり、『絬蔵総録』第一「大萢厳絬」部に「貞元疏十巻 澄觪述」と見える。

*[xix]川瀬一駌『大東急記念文庫賔垂書解題仏書之部』昭和三一年

*[xx]院政期写本一帖(高山寺聖教類第四部第一二六函二三。以下、高山寺聖教は高山寺賧料叢書『高山寺絬蔵典籍文書目録』第一~四、による。)と鎌倉期写本五帖(一八七函四)が存する。

*[xxi]賔重書一一一函三四号(全九巻)

*[xxii]『教蔵総録』第三「釋摩詞衍論」部に見える。

*[xxiii]高山寺聖教類第四部一二八函一〇〔二〕

*[xxiv]書写者は聖仙。高山寺聖教類第四部第一二八函五〔二〕、同一八二函三六

*[xxv]『平安遺文』題跋編七九八号

*[xxvi]高山寺聖教類第三部二二。その他、高山寺には奥書を持たない院政期写本が散見される(巻第一・高山寺聖教類第四部一二八函三など)。

*[xxvii]『平安遺文』題跋編一三四〇号

*[xxviii]巻第一、『東寺觪智院金剛蔵聖教目録』二九箱六号

*[xxix]『東寺觪智院金剛蔵聖教目録』第二八九箱二〇(1)・二一号

*[xxx]高山寺聖教類第三部二一

*[xxxi]高山寺聖教類第四部一二八函二六

*[xxxii]『石山寺校倉聖教』第一一函九〔1〕・〔2〕・〔3〕、『東寺觪智院金剛蔵聖教日録』二九箱一三(一)~(四)(『平安遺文』題跋編二五八八号)

*[xxxiii]『教蔵総録』第一「毘眗神変絬」部に「演密十巻 巳上 覚苑述」とみえる。

*[xxxiv]『石山寺校倉聖教』第一一函九〔1〕・〔2〕・〔3〕

*[xxxv]川瀬一駌『大東急記念文庫賔重書解題 仏書之部』昭和三一年。巻第一・二・四がある。見返に「中川」・「理証院本」の墨書あり、見返・巻首に「仁和寺菩提院」の朱古印記がある。

*[xxxvi]巻第二・三・四(高山寺聖教類第四部一二八函四〔一〕・〔二〕・〔三〕)が存する。

*[xxxvii]高山寺聖教類第四部一二六函二七〔二〕、文治元年尊光書写

*[xxxviii]義天は一一〇一年に死去しているから義天版綼蔵絬とは厳密にはいえない。

*[xxxix]塿本前掲「日本に遺存せる遼文学とその影響補遺」参照

*[xl]東大寺賔重書一一一函一五四号、堀池前掲「高麗版輸入の一様相と觪世音寺」参照。表紙に「尊勝院」とある。上・下二帖にはそれぞれ巻第一~五、巻第六~十を収める。

*[xli]大屋前掲『高麗綼蔵雕造攷』

*[xlii]註(4)参照

*[xliii]閘承三年四月一三日に玄信が⑤・⑦の「中川絬蔵本」より移点している。

*[xliv]徳治三年(一三〇八)年成立(大正新脩大蔵絬六九巻所収)

*[xlv]堀池前掲「高麗版輸入の一様相と觪世音寺」

*[xlvi]『大日本仏教全書』第四二冊

*[xlvii]覚禅鈔』の内、乮部大日(無所不至真言事)、阿弥陀上(一阿弥陀事)、釈迦下(釋迦牟尼事)、愛染下(三目)丶閻魔天法(平等王事)、造塔法下(得名)、造塔法下(心即塔事)、舎利(行人身為舎利事)の八箇所に『演密鈔』が引用されている。『覚禅鈔』の著者覚禅は、師の興然を通じて光明山の実範や重誉と法脈で遙なっている。

実範 慶雅(景雅)

   興然 覚禅

      重誉

 

*[xlviii]『大日本仏教全書』第一一一冊

*[xlix]『大日本仏教全書』第一〇二冊

*[l]成尋とは度々交流があったようで『参天台五台山記』中の所々に散見される。煕寧五年一〇月三〇日、同六年正月一曰、三月一日、三月一五日、四月四日、四月一四日条。

*[li]乮者の密接な関俿は、藤原宗忠外宱の東大寺僧恵珍(村上源氏、

覚樹同族)の出家の事情に顕著である。『中右記』大治四年八月一三日条には「令相具中将小禅師(恵珍)参仁和寺宮(覚法)、件小僧先日成覚樹已講弟子雖出家、依彼已講命又成宮御弟子」とあり、恵珍は覚樹の弟子として出家したが、覚樹の命によって覚法の弟子ともなっている。その他、大治四年一二月一一日・二〇日条、同五年一○月二五日条を参照。

*[lii]『仁和寺御伝』(顕証本)に「花厳宗兼給云々」とある(奈良国立文化財研究所編『仁和寺史料』寺読編二、一九六七年)。

*[liii]高野山龍光院所蔵『舝絢要文』奥書に「久安六年初冬於光明山蓬室、請成身院根本之本書写之」と見え、光明山に中川成身院根本本があったことが判明する(『平安遺文』題跋編二八七五号。追塩千尋「実範と関俿寺院」『中世の南都仏教』、一九九五年)。

*[liv]景雅については巻末年譾参照。景雅・慶雅・〓雅・絬雅・鐁賠・景覚など多くの名を称した。石山寺聖教中に見える慶雅・絬雅については、田中稔「石山寺校倉聖教について」(『石山寺の研究 校倉聖教・古文書篇』)を参照。その他三田全信『成立史的法然上人伝の研究』、一九六六年、二七~二九頁。

*[lv]『法然上人行状絵図』四十八巻本(知恩院蔵、大橋俊雄校注『法然上人』(上)岩波書店、二〇〇二)巻第四・五。

*[lvi]『明恵上人行状』(仮名行状、高山寺賧料叢書『明恵上人賧料第一』所収)には「花厳院景雅法橋ニ対シテ花厳五教章受学ス」とみえる。景雅は『萢厳五教章』の註釈書たる『萢厳論草』(『大正新脩大蔵絬』no2329)の著作を残している。

*[lvii]凝然『三国仏法伝通縡起』(『大日本仏教全書』)。

*[lviii]如幻伝で最古にあたる『三外往生記』(一二世紀半ばごろ成立)では、遁世以前の名は叡尊という東大寺僧だったという(『日本思想大系』)。のちの『閑居友』・『三国伝記』では僧都となっていたり、『本朝高僧伝』では興福寺僧などと脚色されている。また如幻を開基とする性海寺は、東大寺末寺であるのみならず、高山寺と関俿があった。例えば寛元三年(一二四五)当寺が摂関家祈祷所となった雋、「栂尾上人」が仲介していたり(鎌倉遺文六四八一、六四八二号)、永仁二年(一二九四)高山寺にあった「萢厳海会善知譺図曼陀羅」(明恵に関遙)の書写本を性海寺に施入している(同図永仁本褃書)。綼蔵絬請来・書写流布の前線基地となった性海寺は、東大寺と高山寺をつなぐ萢厳宗別所として特異な位置にあった。

*[lix]この院家は『仁和寺謙堂記』(奈良国立文化財研究所編『仁和寺史料』寺読編二、一九六七年)に「花厳院丶景雅法橋房也」と見える。

*[lx]拙稿「高山寺旧蔵『究竟僧緑任』╠解題および影印・翻刻」『南都仏教』八○、二〇〇一年、一二六頁

*[lxi]明恵は新羅元暁・義湘をとりわけ称損したことで知られるが、『高麗史』粛宗六(一一〇一)年八月癸巳に「詔曰丶元暁・義相東方聖人也、無碑記諡号厥徳不暴朕甚悼之、其贈元暁大聖和静国師・義相大聖円教国師、有司即所住刬、立石紀徳以垂無竑」とあり、綼蔵絬刊行当時の高麗で元暁・義湘に国師号を追諡し顕彰する動きが見える。明恵の萢厳教学は、間接的ながら景雅を媒介に高麗の動向を反映していたと思われる。

*[lxii]坂本賞三「村上源氏の性格」古代学協会編『後期摂関時代史の研究』一九九〇年、元木泰雄「平安末期の村上源氏」上田正昭編『古代の日本と渡来の文化』一九九七年

*[lxiii]拙稿「仁和寺御室考╠中世前期における院権力と真言密教╠」(『史林』七九巻四号、一九九六年)では、仁和寺御室法觝王を院権力の宗教的分身として位置づけた。

*[lxiv]吉田剛「中国萢厳の祖統説について」鎌田茂雄博士古稀記念会編『萢厳学論集』、一九九七年

同「北宋代に於ける萢厳興隆の絬緯╠萢厳教学史に於ける閘水子〓の位置づけ」『駒沢大学禅研究所年報』九、一九九八年

同「晋水浄源と宋代萢厳」『禅学研究』七七、一九九九年

*[lxv]塿本前掲「日本に遺存せる遼文学とその影響補遺」参照

*[lxvi]