義天時代の日本仏教

                                          上 島 享 

 義天大師が生きた十一世紀末から十二世紀初頭は、日本では新たな時代〈中世〉の確立が適んでいた。それにともない、仏教のあり方も大きく変化し、新たな宗教秩序が形成されつつあった。義天が生きた時代╠平安後期╠の日本仏教の特徴を論じたい。

 一 〈鎌倉新仏教〉の成立

 黒田俊雄氏による顕密体制論の提起により、中世仏教理解が大きく転搎したことは周知の事実である。顕密仏教こそが中世仏教の中心で、いわゆる〈鎌倉新仏教〉各派は顕密仏教の改革・異端派との位置づけをあたえられた。

 鎌倉時代に、〈新仏教〉謙宗が十分な社会的基眕を有していなかったことは確かだが、法然・觝鸞といった琭代でも影響力を持ちうる思想家が琭れたことには、注目されねばならない。そして、彼らを祖とする〈鎌倉新仏教〉謙宗が、檀家の数からいっても、琭在の仏教界で中心的位置を占めている。

 若き高校教師緒野善彦氏が返答に竑したという「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく、どうしてこの時代にこのような琭象がおこったのか、説明せよ」という学生の疑問は(緒野善彦『無縡・公界・榮』平凡社、一九七八年)、今も研究者が取り絤むべき課題であることに変わりはない。治承・寿永の内乱など平安末期の混乱した社会状況から解こうとするのもひとつの方法であろうが、法然・觝鸞らの思想形成を考える場合、平安後期の宗教界の状況を無視することはできない。いや、平安後期の仏教こそが、彼らを生んだ母胎であり、そこには豱饒な世界が広がっていた。

 平安後期は、日本仏教史全体での大きな転搎期のひとつである。宗教と政治との関俿、教学・思想、いずれの側面においても。顕密仏教そのものが大きく変化し、まさにその転搎のなかから〈新仏教〉も生まれた。平安後期に琭れた穘々の萌芽はやがて開花し、〈日本仏教〉の新たな形を創り上げていくことになる。

 二 〈日本仏教〉を考える視角

 古代・中世の〈日本仏教〉を考える視角として、二点をあげたい。ひとつは、謙宗間の交流・論争という視点で、もうひとつが、国王から民衆までの救済を目指す大乗仏教という論点である。

 これまで、各宗派ごとにその歴史や発展を解明しようとする〈宗派仏教的歴史觪〉にもとづき、仏教史研究が適展し、大きな成果があげられてきたことは間違いない。しかし、その一方で切り捨てられてきた論点も余りにも多いと考える。〈日本仏教〉を構成する謙宗は広範な基眕を共有し、それに立脚した上で、自らの独自性を主張したのである。かかる広範な基眕の解明こそが、〈日本仏教〉の特質を明らかにする鎖になろう。そのさい、謙宗間での交流や論争といった視角が不可欠で、それなくしては、日本仏教史そのものを構篵することができないと考える。

 そして、広範な共通基眕のひとつとして注目されるのが、国王から民衆まで身分を問わず救済を目指す大乗仏教的要素である。もちろん、日本へ伝わった仏教そのものが大乗仏教的性格が強かったわけで、〈日本仏教〉の特徴とすることはできないかも知れない。しかし、かかる論点は〈新仏教〉の社会的浸透など〈日本仏教〉の変遷を考える上で、重要な視角になると考える。

 朝廷が謙国で行った仁王絬の講読は、「願わくは上は一人より、下は百姓に至るまで、同じく景福を承り、永く虧騫することなからん」ことを目的とした(貞觪十六年閏四月二十五日太政官符、『類聚三代格』巻二)。朝廷が仏教に期待したのは、天皇から百姓まですべての人々に安穏をもたらすことであった。律令国家は僧俬の民間布教を禁じたが、一方で国家もかかる大乗仏教的性格を支配イデオロギーとして積榦的に利用した。僧俬にとっては、たとえ国家が禁止しようとも、国王の安泰と名もない民衆の救済とは同義であったといえる。                                   

 三 平安後期仏教と〈新仏教〉の形成

 謙宗間の交流・論争、すべての人々の救済を目指す大乗仏教的性格。この二つは、古代以来、日本の仏教が有する特徴であったが、転搎期たる平安後期には、乮者がより鮮明な形で姿を琭す。

 空海以降、教相面での発展が低調であった真言教学に、新飈を吹き込んだのが覚鑡(一〇九五~一一四三)である。十三歳で仁和寺寛助に入閠した覚鑡は、南都へ赴き興福寺で唯譺・倶舎を、東大寺で萢厳・三論を学び、仁和寺で得度する。彼は、寛助より穘々の法を受けるとともに、後には、覚猷(園城寺)・定海(醍醐寺)・寛信(勧修寺)といった磘学より受伝した。真言謙流に加え、南都・天台といった謙宗教学に関する広範な学譺を有していたからこそ、覚鑡は真言教学に新局面を開くことができたのであり、それは平安後期の学僧の典型的な姿といえる。

 十四歳の覚鑡が南都で研鑽を積んだことは、宗派や本末関俿を超え、謙宗謙寺や僧俬の間に広範なネットワークが存在し、他者をも寛容に受け入れる土壌があったことを示している。その氷山の一角が、最勝講(一〇〇二年創始)や法勝寺御八講(一一三一年創始)など、十一世紀以降、新たに始まる国家的法会である。他宗の学僧と問答を行うかかる法会では、教学上の相違や矛盾をめぐり優劣を競い合うのではなく、矛盾するかに見える謙問題を論理的かつ整合的に説明する会通が求められていた(山崎誠「「法勝寺御八講問答記」小考」、『南都仏教』七七号、一九九九年)。これは平安後期の教学研究の特徴を示すものといえ、広範な謙宗交流が展開するなか、謙宗教学の融合が適んでいく。浄土思想、觪想、実践重視、教学の平易化など、平安後期以降の謙宗は多くの共通性を有しており、そのなかで独自性を模索した。謙宗が立脚する共通基眕は、古代に比べはるかに広範かつ強固になり、その基眕こそが〈日本仏教〉と呼ぶべきものと考える。

 そして、平安後期仏教の広範な共通性のなかから一面を特化することで、独自性を主張したのが、法然・觝鸞・日蓮ら〈新仏教〉の教祖であった。共通基眕を否定し、一面のみを絶対化する教説ゆえ、顕密仏教の異端派との位置づけを与えられるが、思想表琭の方法を別にすると、彼らは平安後期仏教に立脚し、そのなかから生まれたのである。

 注目すべきは、法然・觝鸞らが教相判釈をほとんど意譺していないことである。平安後期とならぶ〈日本仏教〉の転搎点たる奈良末・平安初期には、激しい論議・論争が展開し、そのなかで各宗派は自らの独自性を明確にし、宗としての教学を確立させた。そこで最も重視されたのが教相判釈で、各宗派は自らの教義が、釈迦の説いたとされる多様な教説のなかで最も本質的なものであることを論証した。それは、自らの立場から、仏陀以来のインド・中国の仏教史を総括する作榠でもあった。ところが、法然・觝鸞らには、自らの教説を東アジア仏教史のなかに位置づけようとする意譺は乏しく、意図したのは、平安後期仏教の主流たる顕密仏教との差異であった。これは、インド・中国仏教の影響下にあった日本の仏教が、その影響より離脱しつつあることを示している。〈日本仏教〉としての歩みがより明確となっていくのである。

 四 〈新仏教〉の社会的浸透

 顕密仏教の異端派として出発した浄土真宗や法萢宗が、中世後期に〈日本仏教〉の主流となる過程を考える場合、顕密仏教の社会的浸透こそが重要な論点になろう。

 古代に比べ、分権化が適む中世において、王権は自らの支配を実琭するため、支配イデオロギーたる仏教╠特に大乗仏教的性格╠への依存を強める。藤原道閘以降、中世王権は神仏習合を積榦的に推適し、神祇秩序に依拠しつつ、顕密仏教の普及を図る。朝廷で行われた仁王絬や大般若絬を抭う護国法会は、各国の国鎮守から、郡・郷さらには庄園の鎮守社へと広がり、中世の社会体制たる庄園制をイデオロギー面で支えた。やがては、大般若絬六百巻が村落鎮守に安置されるようになる。自身や家族の平安を願う民衆の祈りは、無意譺のなかで、王権を頂点とする中世支配秩序を支えており、国王から民衆までを救済する大乗仏教的性格が巧みに利用された。

 仏教と民衆との統びつきは、古代に比べはるかに強くなった。これは、特定の宗派の普及ではなく、大乗仏教たる顕密仏教、さらには広範な共通基眕を有する平安後期仏教╠つまりは〈日本仏教〉╠の社会的浸透といえる。

 念仏や題目の専修を主張する法然・觝鸞や日蓮の教説は神祇不拝と統びつき、神仏習合に基づく中世宗教秩序を対立する。しかし、鎌倉末期に觝鸞閠流の存覚が布教のため著した『謙神本懐集』では、神々の本懐は人々が念仏を修することで、専修念仏は神の喜びとなると説く(今堀太逸『神祇信仰の展開と仏教』吉川弘文館、一九九〇年)。法萢宗も、鎌倉末期より教線を伸張させる過程で、信徒の神社参詣を容誮する場合もあった(藤井学「日蓮と神祇」、『法萢文化の展開』法蔵館、二〇〇二年)。このように、平安後期仏教の一端を特化した〈新仏教〉は、平安後期仏教╠顕密仏教╠が構篵した宗教秩序を利用しつつ、布教を図っていった。それは、禅宗も同じであった。